10年経ちました。


 あの日は確か三連休明けの火曜だったはず。
小学校六年生だった僕は三連休の宿題として卒業文集の
「六年間の思い出」と言う作文を全くやっていなく
やらないといけないなーと思って5時半くらいに
目が覚めていた。どうしようなか〜寒いな〜って
思って布団の中で悩んでいた。
そうしているとかたかたと軽く家が揺れて、ガラスの窓が
振動した。と思ったら
ドン!!って音がしたような気がして下から突き上げるような
衝撃が来て激しい横揺れが。紙で作った四角いわっかを横に揺らして
いるかのごとく木造の我が家の壁はいつよこにへちゃげてもいいくらい
右に左に揺れ動いた。布団の中に体をしっかり入れて這いつくばりながら
隙間から壁を眺めて家の無事を祈った。
そうしているとタンスの上にあったダンボール等が落ちてきて
乗っかってきた。少し痛かったけどタンスが倒れなくて良かった。
どのくらい揺れたのかはわからなかったけど長かった気がする。
母の
「なに?何が起こったの!!?」
って声が家族内の第一声で印象に残っている。
小学一年生の妹は揺れで一度起きたけど、母の寝とき
の言葉を素直に聞きその後もしばらく寝ていた。
家の中はもう本当にぐちゃぐちゃぽっかった。
電気が止まっていて暗くてよく見えなかった。
ガラスの破片が危なかった。
ラジオで何が起こったか確認してみる。
アナウンサーもかなりパニックになっていて
震度6だとか5だとか言っていた。
けが人が出たとか、死者が3人や4人とも言っていた。
直感的にそんなモンじゃないってことはみんなわかっていた。
父と兄と僕は近くのおじいちゃんの家へ無事を確認しに行った。
そこまでの道のりもわが町とは思えないほどの変わりようで
木造の家が多かった近所は完全に崩れている家もたくさんあった。
おじいちゃんの家も入り口は崩れていて、家の中には僕は
入れなかったが中もだいぶん壊れていたみたい。
父がなんとかおじいちゃんを助け出した。
その隣の親戚の家もかなり壊れていてみんなで家の形は
しっかり残っている我が家に行くことになった。
近くの山に登ると数え切れないくらいの煙が神戸の町から上がっていた。
サイレンの音が止まることなく鳴り続け、ヘリコプターの音が
妙に耳に残っている。その音が尋常ではない事が起こったことを物語っていた。
停電しても電話は使える事を知った。でも混雑しすぎて
繋がらなかったが…
電気は10時半くらいに回復した。これはすごいことやと思うな。
テレビを見ればさらに衝撃的な映像が流れてくる。
信じられなかった。
テレビをその後あまり見たくなかったのもあるし、それどころでも
なかったこともあってそれほど見なかった。
だから意外と知らない事が多い。
どこか県外に出かけ神戸出身だと言うとたいてい地震のことを聞かれ
自分よりその人のほうが詳しかったりするくらい。


 あの時失ったものはたくさんあるだろう。でも得た貴重な経験・記憶
は逆に失ってはいけないだろう。10年という節目は大事だけど
これで区切りをつけてしまうのではなくこれからも
もっと大事。